「自責思考」に違和感を覚えた私が、「無責」という考え方にたどり着くまで

雑記

私は以前、自責思考が大切だと言われる環境で働いていました。

仕事で問題が起きたときには、

「自責で考えよう」

「他責にしてはいけない」

といった言葉をよく耳にしました。

当時の私は、それが成長するための正しい考え方なのだと思っていました。

しかし今振り返ると、私は「自責」と「原因分析」を同じものとして捉えていたように思います。


原因を考えることと、自分を責めることは違う

仕事でも投資でも、何かうまくいかなかったときには原因を考える必要があります。

なぜ失敗したのか。

どこに改善点があったのか。

次に同じことが起きないようにするには何を変えるべきなのか。

こうした振り返りはとても大切だと思います。

ただ、私はいつの頃からか、

「原因を考えること」

「自分を責めること」

は別のものではないかと考えるようになりました。

たとえば投資で損失が出た場合、

分析が甘かったのかもしれません。

情報収集が不足していたのかもしれません。

その意味では、原因の一部は自分にあると言えます。

しかし、それは必ずしも「自分が悪い」という話ではありません

原因分析と責任追及は、本来別の話なのではないかと思うようになりました。

 

原因が自分にあることと、自分が悪いことは違う

私は以前、

「原因が自分にあるなら、自分が悪い」

という考え方を無意識に持っていました。

しかし今は、両者は別のものだと思っています。

例えば投資です。

ある企業の将来性を調べ、十分に考えた上で投資したにもかかわらず、予想外の規制変更によって株価が大きく下落したとします。

振り返れば、

「規制リスクをもっと調べるべきだった」

という改善点は見つかるかもしれません。

その意味では原因の一部は自分にあります。

しかし、その時点で入手できた情報から合理的に判断していたのであれば、それは「悪い判断」だったとは限りません。


スポーツでも同じです。

野球で三振した選手は、

「もっと変化球を警戒すべきだった」

と思うかもしれません。

原因は自分にあります。

しかし、それだけで選手が怠けていたとか、責められるべきだという話にはなりません。

むしろ次の打席への学びになります。


さらに極端な例を挙げれば、交通事故です。

青信号を確認し、左右を見て横断歩道を渡っていた人が、自転車と接触したとします。

後から振り返れば、

「もう少し注意深く見ていれば避けられたかもしれない」

という意味で、原因の一部を自分側に見出すことはできます。

しかし、だからといって被害者が悪いとは言えません。


私は、この二つが混同されることで、多くの人が必要以上に自分を責めてしまうのではないかと思っています。

原因分析とは、

「次はどうするか」

を考えるためのものです。

一方で、自分を責めることは、

「誰が悪いか」

を考える行為です。

似ているようで、向いている方向が違います。

原因分析は未来を見るためのものですが、責任追及は過去を見るためのものです。


特に面白いのは、

投資の世界では「原因自分論」がかなり浸透していることです。

例えば優秀な投資家でも損失は出します。

そのとき、

「市場が悪い」

「政府が悪い」

「機関投資家が悪い」

と言い続けても上達しません。

だから、

「自分に改善できる点はなかったか」

を考えます。

しかし同時に、

「損失が出たのは自分が人間として劣っているからだ」

とは考えません。

この切り分けが自然にできています。

ところが仕事や人生になると、急に

原因が自分にある

自分が悪い

になってしまう。

私はこの飛躍こそが、自責論の一番危険なところではないかと思っています。

 

責任とは何なのだろう

私は無職になってから、むしろ責任というものを強く意識するようになりました。

働いていた頃よりも、今の方が責任を感じています。

投資するのも自分。

お金を使うのも自分。

失敗しても誰も助けてくれません。

だからこそ、

「責任とは何か」

を改めて考えるようになりました。

私が今思うのは、

責任とは本来、決定権とセットで存在するものではないかということです。

自分で決めたことには責任がある。

逆に、自分では決められないことまで背負い込む必要はない

少なくとも私はそう考えるようになりました。ます。

 

自責と他責だけでは整理できない

世の中では、自責と他責が対立する概念として語られることがよくあります。

しかし私は、この二つだけでは整理しきれない場面が多いように感じています。

原因を調べることは必要です。

改善することも必要です。

しかし、そのたびに誰かの責任を探さなければならないのでしょうか。

問題によっては、

「誰が悪いか」

ではなく、

「何が起きたのか」

を考えた方が有益なこともあると思います。

私が考える「無責」という発想

そこで私が考えるようになったのが、「無責」という考え方です。

無責とは、責任を放棄することではありません

責任逃れをすることでもありません。

そうではなく、

まず責任論を脇に置いて考える姿勢です。

何が起きたのか。

なぜ起きたのか。

次はどうすればよいのか。

その問いに集中する考え方です。

自責でも他責でもなく、

まずは事実と原因を見る。

私はその状態を「無責」と呼んでいます。

過去の私へ

もし昔の私に何か伝えられるなら、

「自分を責めなくてもいい」

と言いたいです。

もちろん改善は必要です。

原因分析も必要です。

ただ、それは自分を責めることとは違います。

自責か他責かで悩む前に、

まずは事実を見る。

何が起きたのかを知る。

そして次に活かす。

今の私は、その方がずっと健全で前向きな考え方ではないかと思っています。

もしかすると、「無責」という考え方は、自責と他責の間にある第三の選択肢なのかもしれません。    

 

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